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2011.05.15 失われた百万本の木 —— 一粒の種を植えることから松林がよみがえる

インゴ・ギュンター

そのとき私は東京お台場の未来館でまもなく公開する予定だった作品《ジオコスモスII》の設置を行っていた。直径6メートルもの地球儀がゆらゆら揺れ始めたのを見ながら信じられない気持ちだった。10分後、地震の震源地はそこからは遠い東北であること、また後には津波が甚大な被害を及ぼしたことを知った。私は彫刻作品の展覧会で東北を何度か訪ねたことがあった。

被害の実態はまだまだ分からなかったが、すぐに一つのことを思った。自分も何かヘルプしたい。だが、タクシーに乗って満足に行き先も告げられない一外人の私に何ができるのだろう。いたずらに日本の危機ゾーンの負荷にならずにできる建設的なことは何だろう?災害観光まがいも、貴重な資源の無駄使いも絶対に避けたかった。未来館のスタッフは決められた手順に従わない外人にいらだち始めていた。(もっとも、それを知っていたところで、従わないだけの口実はみつけられただろう。)

医者でもなくエンジニアでもない私にも、彫刻家としてコンセプチュアル・アーティストとして、何か被災地から離れた場所で自分の能力をよりよく発揮できることがあるはずだった。

翌日、私ができることに気がついた。再建に力を貸すこと。とくに津波に流される松林の様子は何度も何度もテレビのニュースで見て私の脳裏に焼きついていた。流された松林を再現すること、海岸沿いの再植林化に貢献すること。

実は、二年前に一つのプロジェクトを構想していた。コンクリートのテトラポッドを積み上げたぶっきらぼうな防波堤に、自然の海岸の様相をとりもどし、人工と自然を視覚的、美学的にブレンドする構想だ。海岸線の植林は、その構想の延長にある。

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海岸線のプロジェクトは、昔、私個人が経験した日本の第一印象と関わっている。

もう何年も前のこと、三重県の旅館で私は朝四時に目覚めた。人生で最初の日本滞在。本で読みあれほど夢に見た日本。その日本に本当に来たんだということを確認するために、日本が島国だということを確認するために、私は旅館を出て東に向かって歩いた。この方向に進めば広大な太平洋に出るはずだ。岩だらけの浜、それとも砂浜、あるいは崖っぷちに立って、私は島国の美を考えることになるだろう。そんな予感で歩いていった。

ほぼ一時間ほど歩いただろうか。道の終わりまで来て私は文字通り壁に突き当たった。4メートルのコンクリートの壁・・・。私はなんとかよじ登って、ついに海を見た。でも、思い描いていたように波に足をひたすことはできなかった。なぜなら、そこにはテロラポッドが積み重ねられていて、海へのアクセスが遮られていたからだ。私は陰鬱になった。日本についてのロマンチックな想いが一挙に突き崩されてしまった。

5年後、私は福島県で展覧会を準備していた。私は展示スタッフを引き連れ、車を運転して海を見に出た。暗い部屋に缶詰になりワイヤつなぎの仕事を一週間もした後だ。リラックスできる場所に行きたかった。

相馬近くの海岸をめざした。そして予想したとおりテトラポッドの海岸線に行き着いた。かなり歩いて、ようやく無限に広がる水平線のかいま見える場所にたどり着いた。というか、そこにもテトラポッドがあったのだが、防潮壁のない美しい海岸線をなんとか想像することができた。広大な大洋が象徴する無限と永遠をなんとか想うとができた。なんとか・・・。

2年前、私はいわき美術館でのグループ展に参加した。その機会を利用してレンタカーで、至近の沿岸町、小名浜までドライブした。「白砂青松」という海岸の日本美のコードには遠く及ばないにしても、そこには砂も十分にあったし、海沿いの遊歩道のうしろには松の木がまばらに生えていた。もちろんのこと、もしそこにテトラポッドがなければ、日本ではない。と思えるほどには私は日本通になっていた。水際に整然と積まれているものもあったし、浜に打ち捨てられて半分砂に埋まり朽ちかけているものもあった。海岸のコンクリート化は、国の補助によるものだ。この(かつて)美しかった海岸線を護るべく、技術開発と設置のために巨大な予算が投下されているにしても、なんら美学的な配慮がなされているようには思えなかった。作品制作の関係でサテライト写真を見ることもあったが、コンクリートの海岸線は大気圏外からもはっきり認めることができる。どう考えても風景に溶け込むようには決してデザインされていない。むしろ、自然と格闘する人間の能力と欲望を顕彰する記念碑に近い。そのことを自然は気にも留めていないようだった。津波の防護効果を考えれば見てくれの悪さは微々たる問題なのだろうか。私が感じたことは、あくまで典型的な外人の意見だ。ジャパンタイムズのスティーブン・ヘスによると、日本の海岸線の半分がコンクリで固められているとか。私は私なりにコンクリ海岸問題に創造的に問題提起すべく調査を始めた。何か息の長いプロジェクトになれば、という希望があった。

しかし、最初からテトラポッドを除去できるとは期待も希望もしていなかった。より効果的で美的な防護壁を設計するだけの工学的素養があるわけでもなった。しかし、私一人だけがコンクリのバリアが心理的なバリアになっていると考えるはずがないとも思っていた。むろん、日本の美しい海岸に対するロマンチックな想いも私の夢にはしまいこまれていた。(夢といっても、スペイン北部のコスタ・ブラバを何度も訪れているうちに、ノスタルジアと松の木の匂いにかられて、視覚的なモチーフは出来上がっていた。)

海洋工学の技術者たちが作ってしまった無味乾燥なコンクリ塊のうえにも生育できる植物を見つけたいと思っていた。コンクリの無名性を打破し、それを無視する一助となるものなら何でもよかった。リサイクルプラスチック製の木をテトラポッドに螺子で留めたら小島に見えるかも、などと考えた。(リサイクルプラスチックは塩水の腐食に強くすでに船渠建設に使われていた。)網をしかけて、漂流物を集めたり、鳥が羽を休めて安心してエサを食べることのできる場所を作ることも考えた。鳥の糞は肥料になるから、テトラポッドがエコなビオトープになるわけだ。

偶然だが自然にみまがうようなテトラポッドも発見した。テトラポットを考案した仏アルプスにあるソグレー社(元グルノーブル・ハイドローリック・ラボ社)の製品だ。

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3月11日の出来事は、テトラポッドの必要性と、そしてそれ以上にその限界を痛感させられるものだった。今回の津波をきっかけに、もっと強固な防潮壁を作ろうという要請も出てくるだろうし、別の方策を練るべきだという意見もあるだろう。現実には簡単な解決策もないだろうし、無論のこと魔法を使うわけにもいかない。

それでも、私が望むのは、現実的な方法で日本の海岸線の美を今一度再現したいということ。ひょっとすると、それは空想の域にはいる問題かもしれないが・・・。

東日本大震災の被害は甚大かつ広汎で生々しく明白だ。何十万人もの被災者のニーズも同じように広汎だ。被災者支援に向けて、ボランティア、赤十字、自治体や政府が力を挙げて取り組んでいる。日本のみならず海外からも専門家が援助を申し入れ、復旧と復興への計画が出されている。個人のレベルでも世界中から義援金が寄せられ、さまざまに支援の手が差し伸べられている。

地震、津波、原発事故が三重にかさなった災害のニュースは世界中にインターネットやマスメディアを通じて広がった。おそらく、情報量の点では史上最大の自然災害に違いない—ただし、次に洪水や地震やテレビ映りのする災害が何かおこれば、世界の関心は移っていくのだろうが・・・。

人的経済的壊滅に比べれば、他の被害は比較にならないのかもしれない。被災地や被災者の今後がいまだに不透明な状況では、他の被害を考えることは軽薄なのかもしれない。

しかし、日本にいなくても、何億円という義援金を拠出することができなくても、何か個人としてできることはないだろうか、と私は考え込む。

想像を絶するスケールの津波、自然の圧倒的な力が作用した大災害を前にして、個人の行為は無力に思えてしまう。だが、個々人は微小でも、何人もの個人が存在する。その個人と個人をつなげることが積極的な意味を生み出さないだろうか?

植物や野生動物の破壊は人間の悲劇の影に隠れる。だが、自然の美、自然への信頼、自然を思う心、安全な未来を願う気持ちも危機にさらされている。すべてを失ってしまった人々の避難施設、仮設住宅を提供することは緊急課題だ。しかし、生命、生活、地域のみならず、自然自体も傷つき、テレビやメディアを通じてそれらを目撃し追体験した私たちもまた重荷を共有する。そこに無意識にせよ(利己的にせよ)ダメージから回復したいという願望が生まれる。

津波が海岸の松林に襲いかかるのを見て、とくに仙台空港近くの名取の映像では、家屋は津波の前では無力であることが痛感される。でも、松の木はよく耐えて、津波のスピードとインパクトを和らげているようだった。さらに報道記事を調べてみると、松林があったおかげで怒涛の津波に襲われても洪水程度の被害ですんだ事例のあることも分かった。たとえば、あるインドの村では8万本の防潮林を植えたその2年後に2004年の大津波が来たが無傷ですんだ、という。微笑ましいのは、8万本というのはギネスブックにのるための数だったということだ。

日本の各機関も津波対策の一環として、テトラポッドの導入やインド洋の大津波の数十年も前から防潮林の効果を認めてきた。3月11日後に撮影された東北沿岸の航空写真をつぶさに調べてみたが同じことが分かった。建物や木々が消失した背後の地域に、家や木が残っている。木に護られているか、あるいは高台にあるか。さもなくば家は残っていない。

最近の新聞記事では、今回の震災で1700ヘクタール近い防潮林や森林が失われたという。これは津波対策で植林された松林の半数強に当たる。つまり、津波でほぼ100万本の木が失われたことになる。(さらに百万本が津波後の山火事で失われたと考えられている。)津波による防潮林の損失は換算すると80メートル幅で100キロの長さに相当する。

私が言い出すまでもなく、防潮林は再植樹されるべきだろう。津波対策になるばかりか、生物多様性を促進するエコゾーンとしても有効だ。ある研究によると、防潮林は地元に経済効果も生み出す。木材として伐採したり、それこそ松のお酒や入浴剤などアロマセラピー的な商品まで開発されている。

そして、日本の海岸美を促進し、また再自然化することも意味のあることだと私は思う。たとえ歴史的に見れば「白砂青松」が人工の産物である面が多々あったとしても、各地の松原には数多くの観光客が訪れている。防潮林が全滅してたった一本の松が海岸に残った陸前高田では現実に地元の人々の役に立ったわけだが、都会の人間にとっても新鮮な空気と松の香りを胸いっぱいに吸い込む以上の恩恵があったはずだ。そこで感じることのできる静謐な気分や自然の美。そして古木の凛とした存在は自然の強さを感じ、自然への憧憬を覚醒させ、自然の意味を考えさせることのできる地球でも数少ない現象の一つだ。

傷ついた風景にも、傷ついた人の心と同じように癒しが必要だ。津波の去った後に木を育てることで、自然との関係の修復が始まる。そして、母なる自然への信頼を取り戻す、そのきっかけになるだろう。

こうした提案をして東北の人たちをわずらわせるつもりはない。直近のニーズが何より第一だということはよくわかっている。そして、被災地や被災者の方たちを援助するためにありうる限りの資源と資金が投入されるべきだと思う。

しかし、日本にも海外にも東北のために何か建設的なことをしたい、と考える人々がいることも確かだ。ヘルプしたい、という本能的な気持は世界中にあふれている。私の友人にハリウッドで成功したプロデューサーがいるが、できるものなら会社を休んで瓦礫の撤去作業に参加したいと話していた。多くの友人たちが私に電話をかけてきて、赤十字に義援金を送る以外に、もっと直接になにかヘルプできることはないのか、としきりにたずねてきた。卑近な例だが、タマゴッチは15年で7千6百万個もが流通した。何かの面倒を見てヘルプしたいというのは、食べるのと同じくらい自然なことだ。人間の欲求なのだ。

もしも、日本の子供たちの7人に一人が、自宅の窓辺や学校のプロジェクトとして松の種子を植えて育てたら、1年で百万本の松の苗ができる計算になる。もちろん、松の苗を集めて目的地まで輸送するロジスティックは考慮されねばならない。が、この方法の利点は、子供たちと東北の特定の場所を結ぶことになる点だ。そして、被災した地域の将来と、被災しなっかった日本の各地の未来が長くリンクすることになる。アメリカには「Adopt a Highway」—高速道路との養子縁組—という清掃キャンペーンがあった。高速道路の一区間を地元のボランティア団体がスポンサーとなって定期的に清掃する、という運動だ。これを東北にも応用して1平米単位で海岸線のスポンサーを募り植林に貢献してもらう。植えられた松の木から「ありがとう」のお手紙が返ってくるわけではないが、松の木が育っていく状況を各種のデータをつうじて知らせることができるだろう。何しろ、現在は情報時代である。

あるいは、スイス・アルプスの雪崩地帯と、東北の津波地帯で植樹のマッチングを夢想したりもする。子供も大人も参加して、自宅や学校で苗を育てる。自分たちの経験を互いに話し合い、あるいは文通して交流する。これが永続的な関係につながっていくだろう。大切なのは、このアイディアが植樹そのものもさることながら、二つの地域の人々の間にある種のアイデンティティーを植える、ことにつながる点だ。記憶と未来への期待を作り出すこと。そこに住まない人々のために、東北という場所のアイデンティティの核を作ること。遠くの今まで知らなかった土地で何かを育んでいるという気持ち、その何かが自分が死んだ後でもずっと残っていくという感覚。いつの日か自分の孫がその地を訪れて、これがおばあちゃんが子供のときに育てた松の木だ、と会いに行く・・・。

松の種は一つの結節点だ。国内にせよ、海外にせよ、ヘルプしたいという気持ちを持つ人たちのネットワークを動かすベクトルとなる。松の木は社会の触媒となる。そして、時がきたら東北の人々のもとへ送られる。

東北の海岸の再植林プロジェクトが、被災地・被災者への救援と予算的に競合するべきではないし、適切な方法が考案されれば競合することもないはずだ。

ヘルプしたい、という気持ちの常ではあるが、ヘルプする側がなによりヘルプされている、という現実もある。もしも、瓦礫と破壊の跡地に、一本の小さい松の木を植えることができたとしたら、そして津波に耐えてただ一本残った古木に私の一本が寄り添ってこれから何年も一緒に東北の海岸に立っていることができたとしたら、こんなにうれしいことはない。私個人としては、の話だが。

ただし、このアイディアを実現するためには、その実現自体には時間がかかるとしても、今この時点から着手しなければならないだろう。直近の復興のための資源を取らない形で。何より非競争的なアプローチが必要だ。純粋な善意から何かが育っていくことが見えるだろう。

社会的でかつ人間の心を織り込んだ錬金術こそは、文化的エンジニアリングがなしうる貢献の一つである。あるいは、私のヒーロー、ドイツの政治派アーティスト、ヨーゼフ・ボイスの言葉を借りるなら、これは一つの「社会彫刻」なのだ。

(翻訳・富井玲子)