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2011.03.25 福島以降の世界:日本が活路を見出すためにアートに何ができるのか

(※本稿は、ARTINFO2011年4月25日掲載のAfter Fukushima: How Art Can Again Help Japan Find Its Wayの全訳です)

渡辺真也
2011年3月25日

日本の壊滅的な地震から9日間が経った石巻市で、16歳の阿部任さんが瓦礫の下から救出された。その彼が、インタビューで、将来何になりたいかと尋ねられた。答えは、「芸術家になりたいです」だった。

作家の村上龍がニューヨーク・タイムズ紙で書いたように、ここ数週間の悲劇的な出来事が起こるまで、人口の減少と経済の低迷に直面していた日本には、何でもあったが希望だけはなかった。地震とその後の津波や放射能の脅威を通して、日本人は日本を再発見した。思いやりをもって団結したのだ。生存者の救出は何日も続いたが、略奪の報告はほとんどされていない。日本人の集団としてのきずなの強さが証明されたのだ。

広島と長崎という名の二つの深い傷を持つ日本は、今回の津波に被災した福島の原子力発電所から漏出されている放射線の恐怖にまたしてもさらされている。人々は、環境放射線量をテレビで確認するのが日課になっている。食料、水、安全性など、不安は尽きない。スーパーに駆けこんで買いだめをする人もいる。その結果、放射能の被害に遭っている福島県産の売れ残り以外は、首都圏で食料を調達するのが難しくなっている。

ニューヨークと東京を拠点に活動する現代アートのキュレーターとして、私は今まで日本の戦後美術についての「アトミック・サンシャインの中へ」展や、アートとアニミズムについての「ボルケーノ・ラヴァーズ」等の展覧会を企画してきた。今日、この大惨事を目の前にして、私は自分の意見を述べ、行動していく責任を感じている。世界中のボランティアのアーティストや支援者を助けを借りれば、人々に希望を与えることができるだろう。しかし、アーティストとして、そして市民として、この大災害にどのような反応をすればいいのかを理解するためには、まずは1945年以降の日本の歴史、日本とアメリカの関係、そして結果的に生じた日本社会の構造を理解する必要がある。

日本の戦後期における政策は、経済成長が全てだった。しかし、第二次世界大戦に敗北し、その後アメリカに軍事占領された日本は、ソビエト連邦と共産主義の中国と敵対する資本主義ブロックの一員という役割においてのみ経済成長を認められ、政治的自立を手にすることはなかった。アメリカの(CIAを含む)情報局は、局員であり、元A級戦犯でもあった正力松太郎を日本原子力委員会の初代会長に選んだ。

日本を原子力に依存させるための戦いは、イメージ戦争としてしかけられた。正力は、1955年初頭にメディア・キャンペーンを展開し、原子力へ移行すれば、日本は天然資源の欠如を補えるようになると訴えた。日本での反原発運動と反米活動の信憑性を失わせるため、「原子力平和利用博覧会」を開催し、現在の複雑な原子力政策の背景を確立させた。

福島での事故が起こる以前からも、日本の原子力発電所の危険性は、頻繁に指摘されていた。ゼネラル・エレクトリック社が福島第一原子力発電所の沸騰水型原子炉を設計してから、同社の科学者3人が原子炉の欠陥のあるデザインに抗議して辞職した。これは、35年も前の出来事だ。それにもかかわらず、原子力推進派の圧力団体が「安全性」の神話を広める宣伝活動を行った。その結果、日本は原子力に強く依存する国になった。

しかし、広島と長崎のトラウマのため、日本では世代を超えて、原子力時代の恐怖が文化の原動力となってきた。大阪の医師、手塚治虫は、マンガ・アニメーション作品「鉄腕アトム」を世に出した。このマンガの最後のシーンでは、人型ロボット「アトム」が爆弾を太陽に運び、自らを犠牲にして地球を守る。原子力時代を象徴する怪獣ゴジラは、ビキニ環礁での原子爆発実験の副作用で、被曝した「鯨」と「ゴリラ」の合成として生まれた。宇宙人の侵略と戦う地球防衛軍を助けるため、他の惑星から来たスーパーヒーローのウルトラマンは、沖縄県民の金城哲夫によって綴られ、ベトナム戦争での核戦争の可能性を反映させていた。

第二次世界大戦の経験を振り返る、オノ・ヨーコの平和をテーマとした作品シリーズは、日本に落とされた二つの原子爆弾と深い繋がりがある。彼女は、イスラエルの核兵器の購入を告発したイスラエル人の元原子力技術者モルデハイ・バヌヌに平和賞の授与もしている(自身は、2010年にヒロシマ章を受賞している)。現代アーティスト森村泰昌も、「なにものかへのレクイエム(三島)」展で戦争の後遺症に取り組み、若い日本人のアーティストに、自分の表現と共に、戦後の歴史についても考えるように訴えた。

アメリカで成功を手にした後、日本人アーティスト柳幸典は、アメリカの公共機関の協力を得て、作品「Forbidden Box」を制作した。その後、広島に移住し、広島アートプロジェクトを始動させた。犬島の使われなくなった銅製錬所に設置された彼のライフワークである「製錬所」プロジェクトは、国家主義者の作家であり、日本の近代化の代償を批判し、完全な独立と、日米安保条約の撤廃を求めた三島由紀夫の生涯に捧げられた、空間的なコラージュだ。

日本の若い世代のアーティストたちは、戦後の遺産における負の側面に対しての認識が低い。しかし、この震災を受けて、今までは不可能だったかたちで日本を見直すことができるようになっている。これは、エネルギー政策を変えるという意味に限ったことではない。日本人は、大局を見据えて、戦後の体制を超えて、新しい、より人間的な何かに向かわなければならない。アーティストの社会の中での一番大切な役割はインフラを建設することではなく、新しい観点を切り開く理想を掲げることだ。

アーティストは、社会の再考に貢献することができるのだろうか?現在アート界は、地震の被災者のための基金を募るために様々なイベントを企画している。その目的で集まったアーティスト、俳優、学者、映像作家やクリエイティブ産業の人たちが組織したのがACT FOR JAPAN(A4J)という団体だ。A4Jの目的は、経済的にも文化的にも地震の被害者を支援していくことである。自分の作品を寄贈したいアーティストたちにウェブ上のプラットフォームを提供し、作品をチャリティー目的でオンラインで販売していく。

インディペンデント・キュレーターの窪田研二は、Japan Art Donationというプロジェクトを立ち上げた。アーティストと共に募金を募り、その資金を使って被災地の文化施設の復旧を支援し、アート活動を行っていく。また東京都は、4月1日からアートフェア東京が開催予定だった東京国際フォーラムを、生存者のための避難所として使用することを発表した。

最後に、インディペンデント・キュレーターである私は、日本人と世界のアーティストのチャリティー展覧会を、例えばアート・バーゼル開催中のスイスなどで企画したいと考えている。この展覧会では、この一連の出来事に深く影響され、ポスト原子力時代の表現を創りだそうとしているアーティストを起用する。作品は全て無償提供して頂き、寄付金は津波の被災者へと寄付される。これを可能にするためには、スポンサーと、海外からの支援者が必要だが、やる価値はある。今は行動すべき時だ。アートは、今、被災者の生活を立て直す手助けをすることができる。

(翻訳:松山直希)

渡辺真也は、東京とニューヨークを拠点に活動しているインディペンデント・キュレーター。テンプル大学ジャパンのアート学科で教鞭をとっている。ウェブサイトは、www.shinyawatanabe.net、問い合わせ・連絡は、info@shinyawatanabe.netまで。記事中の見解は、全て著者本人のものである。